はじめに

「ファーストの清原君がピッチャー」
「4番、ピッチャー、清原君」
こんなアナウンスが甲子園球場に流れました。
昭和60年(1985年)8月14日のことです。


第67回全国高等学校野球選手権大会の7日目第2試合、東海大山形(山形)対PL学園(大阪)の試合の9回表のことでした。


この試合は、PL学園が猛攻の末、「29対7」という記録的なスコアになりました。

東海形_001_000_015=7
P_L_254_362_52×=29

http://www.asahi.com/koshien/game/1985/400/7635/


それまでの記録が、昭和11年(1936年)の第22回大会の「27対4」だったので、49年ぶりの記録更新となりました。
長野商_010_000_003=4
静岡商_020_621_412×=27

http://www.asahi.com/koshien/game/1936/400/6229/


この試合では、PL学園は「1試合最多安打:32」「1試合最多得点:29」「毎回得点」など、多くの記録を塗り替えました。


しかし、点数面では塗り替えられなかった記録があります。
それが「最多得点差」です。
第22回大会の長野商対静岡商では「23点差」ですが、東海大山形対PL学園は「22点差」と、あと1点、及びませんでした。
東海大山形が、9回表に猛反撃を見せて5点を奪い、意地を見せたのです。


当時のPL学園は、「KKコンビ」と呼ばれた桑田真澄と清原和博がおり、それぞれ「投打の要」として注目を浴びていました。
先発投手は当然、桑田。そして四番打者は、当然、清原。
ところが、冒頭のようなアナウンスがあり、試合終了時点でマウンドにいたのは清原でした。
大量得点差であれば、エースを休ませるために投手交代することはままあることですが、「打」のイメージが強い清原が投手だったことから、いろいろと言われるようになりました。

いわく
「大量得点差だったので、清原が遊びで投手をした」
「清原が投手をやったら、打たれまくって5点取られた」
「投手が清原でなかったら、最多得点差になっていたはず」
などなど。

しかし、その実態は、どうだったのでしょうか?


高校野球は「教育の一環」とされている中、「余裕だから、遊びで投手をやる」という、相手を舐めたふざけた行為が、本当にあったのでしょうか?


私はPL学園のファンでも清原のファンでもありません。
また、関係者でもないので、ベンチの采配などの内実も、当然わかりません。
しかし、記録をチェックしていくと、あまり知られていない事実が浮かび上がってきます。
実は、私はたまたまこの試合をテレビで最初から最後まで見ていました。
なので、「事実と違うことが、まことしやかに伝わっている」のが気になったので、この知恵ノートを書こうと思いました。
ですから、「これは事実誤認ではないか」という御指摘は、御遠慮なくアドバイスしていただきますようお願いします。

記録を見てみよう

では、この試合のPL学園の投手成績をチェックしてみましょう。


桑田真澄 投球回6回
 打者20人 被安打3 奪三振6 与四死球0 自責点1
井元秀人 投球回2回
 打者9人 被安打2 奪三振1 与四死球2 自責点1
小林克也 投球回1/3回
 打者7人 被安打4 奪三振0 与四死球1 自責点3
清原和博 投球回2/3回
 打者4人 被安打0 奪三振1 与四死球2 自責点0


ん???
清原は「被安打ゼロ」かつ「自責点ゼロ」!!
ちゃんと押さえているやんか!!


じゃ、9回表の「5点」は、いったい???


試合を振り返ってみましょう。
この試合、先発の桑田、2人目の井元が好投し、「29対2」で8回まで終わりました。
そして9回表の東海大山形の攻撃のとき、PL学園の投手は3人目の小林に交替します。


ところが、この小林が乱調でした。
打者7人に対して、アウトは1つ取ったものの、ヒット4本と四死球1つで「3点」を取られ、なお一死満塁で失点のピンチ。


ここで4人目として「投手、清原」の出番です。
清原は、1人目を三振に切って取ります。
その後の2人に四球を与えてしまい、押し出しで「2点」を失いますが、4人目はファールフライに打ち取ってゲームセット。
(押し出しの2点は、小林が出した走者なので、清原の自責点にはなりません。)


ん~、こんなもの?
投手成績は、そんなにひどくない?


実は、甲子園での「ピッチャー、清原君」は2回目だった

あまり話題になりませんが、清原が甲子園のマウンドに立ったのは、実は、このときが初めてではありませんでした。
同じ1985年(昭和60年)の春、第57回選抜高等学校野球大会の1回戦、浜松商(静岡)との試合で、終盤にマウンドに立っています。
この試合のPL学園の投手成績です。


桑田真澄 投球回6回   
 打者23人 被安打6 奪三振3 与四死球2 自責点1
小林克也 投球回1回1/3
 打者10人 被安打5 奪三振0 与四死球1 自責点0
清原和博 投球回1回2/3
 打者5人 被安打0 奪三振2 与四死球0 自責点0


先発は桑田でしたが、7回から2人目の小林に交替。
7回は無難に押さえた小林ですが、8回は一死満塁のピンチ。
ここで清原に交替です。
清原は続く打者を外野フライとピッチャーゴロで無失点に切り抜けます。
そして9回。
清原は先頭打者を内野フライに打ち取り、さらに続く2人を連続三振に。
5人をピシャリと押さえました。


結局、清原が甲子園で投手をしたのは2試合です。

(2試合とも「小林が一死満塁のピンチを招いた場面だった」というのも興味深い…。)

その総合成績は、次のとおりです。


清原和博 試合数2 投球回2回1/3
 打者9人 被安打0 奪三振3 与四死球2 自責点0


2試合で「被安打ゼロ」だったんですね…。
なので、東海大山形との試合で清原が「投手の1人」としてマウンドに上がったのも、春の実績を踏まえてのことだったんですね。


それにしても、なぜ清原?

なぜ清原がマウンドに上がったのか。
東海大山形との試合では、先発した桑田は外野の守備についていました。
なので、「もう一度、桑田をマウンドに上げる」という選択肢もあったはずです。
また、リリーフピッチャーとしては、まだ田口権一がベンチに残っていました。
そもそも、まだ得点差が20点以上あったので、小林の続投もあり得たはずです。


田口は、入学時点では、桑田より先に「将来のエース候補」とされていたというエピソードがあります。
甲子園では1984年(昭和59年)の第56回選抜大会で、初戦の砂川北との試合で先発投手を務めました。
その年の夏はベンチ入りしていませんでしたが、1985年(昭和60年)春は再びベンチ入り。
最後の夏は、準決勝との甲西との試合で、2人目の投手としてマウンドに上がります。


ここから先は私の憶測です。
おそらく、このまま小林を続投させると「まだまだ点を取られる」可能性があります。
かと言って、桑田をマウンドに戻すと、他のチームに「桑田じゃなければ、なんとかなる」と思わせてしまいます。
これから勝ち進むことを考えると、「桑田以外のピッチャーでピシャリと締めたい」ところです。
と言っても、おそらく「小林で締めてゲームセット」のつもりだったでしょうから、田口の準備はしていなかったと思われます。
(このときのブルペンがどうだったか覚えていませんので、間違いがあれば指摘願います。)
そう考えると、「短いイニングだったら、清原でいける。春の実績もあるし。」という発想は、ごく自然ではないでしょうか。


ということで、まとめますと、
(1)東海大山形との試合で「投手・清原」が実現したのは、決して遊びからではない
(2)実際、清原は救援投手として、それなりに押さえた
と言えるでしょう。


もしかしたら、この試合が「29対7」という記録に残る試合ではなく、例えば「16対5」くらいの試合だったら、浜松商との試合のときのように「清原がピッチャーをしたことも忘れ去られていた」「トリビアで『実は清原が甲子園で投げたことがあるんだぜ』というネタができる」というレベルの話で終わっていたかも知れませんね。

解説を作ってみました

「大量得点差だったので、清原が遊びでピッチャーをやった」

もう、おわかりですね。
9回表の最初から交替したというならならまだしも、大量得点差とは言え一死満塁で、相手方が「まだまだ食い下がるぞ」と意地を見せているときに、遊びで投手交代はしません。
この大会後に発売された「週刊ベースボール増刊号」にも、この試合の評で、東海大山形の猛攻で「予定外の清原まで登板させることになった」とあります。



「投手が清原に交替したら、打たれまくって5点取られた」

これもガセネタですね。
記録を見れば一目瞭然です。



「野手が投手をするなんて、相手に対して失礼だ」

え~と、プロ野球と間違えていませんか?
高校野球では、野手が投手をすることなんて、よくあることです。

プロ野球では、投手と野手は分業体制です。
(だからこそ「二刀流」の大谷翔平(日本ハム)がここまで話題になるのです。)
そこから「(投手の練習をしていない)野手が投手をするなんて失礼」という考えが出てくるのでしょう。


現に、オールスターでそういったことがありました。
1996年(平成8年)のオールスターで、セ・リーグ側の打者が松井秀喜のときに、パ・リーグ側の仰木彩監督が(高校時代は投手だった)イチローを「ファンサービスで」投手にしたところ、セ・リーグ側の野村克也監督が怒って代打に高津臣吾(投手だから打撃はダメ)を出したことがありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1996年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)



「清原に投手ができたの?変化球は投げられる?」

清原は中学時代は投手でした。
また、現に甲子園でそれなりに押さえているのだから、「できた」と言わざるを得ないでしょう。

この試合の球審だった西大立目永(にしおおたちめ・ひさし)さんは、清原に「ストレートを投げろ」と言ったそうですね。
本当かどうかは知りませんが。
http://www.daily.co.jp/baseball/2015/05/19/0008039065.shtml?pg=2